古代のティワナク社会はどのような社会であったのだろうか。ティワナクはしばしば帝国と称されることがあるが、ティワナクが実際にどのような社会であったかについては、研究者の間で意見が分かれている。
ティワナクは官僚制国家か
最近では、ティワナク社会を「官僚制を伴う国家」とみなすモデルが提案されている[9]。
しかし、考古学的証拠のみから「官僚制」を推測するのは難しいため、反論も多い[10]。
反論としてあげられているモデルでは、「複雑な地縁・血縁組織(アイリュと呼ばれる)が重層化した社会」とみなすものがある[11]。
これらの論争は、SukaKolluと呼ばれる堀を伴った盛り畑農耕技術の調査とその解釈が発端であった。
ここ数十年のティティカカ湖沿岸の考古学は、主にそのサブシステンスの研究 (国家による生産物の流通・管理・分配などポリティカル名部分さえも含む広い意味での生業・生計研究) に比重が置かれてきた。1990年代にはいり、さらに異なるテーマからの研究も行われているが、ティワナク研究でも長い間、生業研究に比重が置かれていた。そこで、着目されたのが、アイマラ語でSukaKollu (スカ・コリュ、ケチュア語でワル・ワル[12]と呼ばれる堀を伴った「盛り畑」農耕であった (詳細は後述)。現代では放棄されたこの盛り畑農耕に対して、1980年代初頭から復元実験を始め、その単位面積あたりの生産性の高さが注目されていた時期でもあった。
この盛り畑耕法が、ティワナク政体により直接管理されていたのか、それとも、ローカルな地元農民たち自身の手で管理され実践されていたのか、という遺構に対する高次元の解釈への過程から、論争は生じ、1980年代後半から2000年ころまで続いた。
先にあげたアラン・コラータの官僚モデルではティワナクによるSukaKolluの直接的な管理運営を主張する[13]。ティワナク遺跡のあるティワナク谷のとなりにあるカタリ盆地に広がる盛り畑やそれに付随する長さ20kmほどの河床を人工的に改変した水利施設は、ティワナク政体の中央から技官が派遣されて作られたものであると言う[14]。その証拠に、カタリ盆地とティワナク谷の水利施設は似たような構造になっていると主張する(前掲書)。また、盛り畑の畝の土中や、放棄後の畝上の覆土から得た炭化物(カタツムリの殻など)を放射性炭素年代測定にかけ、これらの盛り畑がティワナク期に利用されていることを示した[15]。それによれば、ほとんどどの炭化物はティワナク期の年代を示している[16]。
これに対し、クラーク・エリクソンは、盛り畑やそれに付随する水利施設、堤防などを、短絡的に国家による管理に結びつける解釈に疑問を呈し、これらはペルー領での実験によっても数家族で運営が可能であることが確認されており、国家による管理は必要なかったと述べている[17]。そして、盛り畑や水利施設などは地元民によって管理運営されていたと主張する(前掲書)。さらに、コラータの非常に生産力重視でかつ大規模土木建築重視の理論に対して、ネオ・灌漑理論として批判している[18]。
エリクソンも熱ルミネッセンス法で、盛り畑の利用年代を調べている。それによれば、盛り畑と物理的に連なっている住居址から出土した土器から盛り畑の年代を測定している。それによれば、紀元前200年から紀元後200年の間、およびティワナク崩壊後の時期を示すという。
しかし、これは盛り畑の畝から出土した土器や炭化物ではないため、コラータは批判を行っており、そのため、上記で記したように畝から得た炭化物(ただし陸生のカタツムリなどあいまいなものもある)から畝の利用年代を示した。
しかし、これについてもそのサンプルの質の問題や、畑の畝という性格上、その中から得た炭化物でもって利用年代がわかるのか?、といった疑問もある。
コラータの調査チームに参加していたボリビア人考古学者のアルバラシン-ホルダンは、ティワナク谷下流域における遺跡登録のための踏査(セトルメント・パターン調査)を行い、その遺跡の分布状況を解釈するにあたり、スペイン人の書き記したアイリュ(地縁・血縁的集団)に関する記録文書を利用した。そして、このアイリュがより複雑に重層化したのがティワナク社会だったと主張する。その上で、これらアイリュなどの手によってSukaKolluや水利施設などは管理されていたと述べている[19]。
しかし、両者とも、決定的な考古学的証拠を挙げることができないため、議論は堂々巡りになっている。
最近になり、これらの二項対立的な論争を昇華しようという動きがあるものの、耕作の管理形態という問題は、考古学的証拠から直接アプローチできないため、最終的な結論には至らないまま論争は収束していった。
ティワナク社会崩壊の問題
現在では、この論争は、ティワナクの崩壊という問題へ形を変えて継続している。
アラン・コラータは、気候変動による乾燥化で盛り畑(SukaKollu)の生産性が落ち、それがティワナク社会崩壊の引き金になったと論じる[20]。
それに対して、クラーク・エリクソンは、新環境決定論として反論している[21]。
コラータらの調査に参加していた、ボリビア人考古学者のアラバラシン-ホルダンは、ティワナク社会が崩壊した後も、小規模にはなったものの盛り畑が利用されていたことをあげ、気候変動によるティワナクの崩壊について、疑問視している。
さらに、アラン・コラータの生徒であったポール・ゴールドスタイン(Paul Goldstein)も、自身の調査地であるペルーのオモ遺跡群およびモケグワ川周辺のエル・ニーニョ関連の調査から、気候の変化による乾燥化がティワナク崩壊の原因ではなく、エリクソンの述べる社会内部の不安定が遠因とする説に賛同すると述べている[22]。ゴールドスタインによれば、コラータの述べる乾燥化による農耕システムの崩壊がモケグワ谷では見られなかったとのべている。事実、A.D.1300年頃に起こった大規模なエル・ニーニョによる洪水は、モケグワ川におけるティワナク関連遺跡の放棄時期の後に起こっているという。
このように、現在でもティワナク社会の崩壊原因については論争が行われている。
古代の生業技術(盛り畑農耕)の収穫高や効率性への疑問
さらにこの問題は、これまでとまったく異なった面から問われても始めている。20年間にわたって研究されてきた、ティティカカ湖沿岸の生業研究の一つの成果であるスカ・コリュ (SukaKollu) (盛り畑)農耕の生産性が疑われ、これまで喧伝されてきたスカ・コリュ(盛り畑)農耕の持つ効率性や生産性の高さに対してまでも、疑問視され始めている[23]。
Swartleyによると、SukaKolluという耕作技術そのものが、考古学者によって発明された先住民の知恵(Inventing Indigenous Knowledge)であるという。ティワナク期に、どのような社会環境の中で利用されていたのかは実際にはわかりえず、これらの利用に対する解釈と実験はすべて考古学者によって発案され、先住民の知恵として喧伝されてきたという。
また、Bandyは、SukaKolluと雨水に頼る一般的な天水農耕とのエネルギー面からの効率性を検証し、SukaKolluの効率性が実は一般の天水農耕よりも悪いと論じている。さらに、シストセンチュウにより連作障害が引き起こされるため、この点を考慮すると、決して効率のいい耕法ではなかったと論じている。
こうなると、「生産性が高い盛り畑農耕(スカ・コリュ)」をティワナク社会の重要な生業基盤とした前提の元で行われていた上記の議論がすべて崩れ始める。
特に、生態学的環境に厳しいアルティプラーノにおいて、なぜティワナク社会は生じたのか、という問題にもかかわってくる。
メソッド ディスポ ワシン ナギイ 十字星 ケルセ ロービ はつい バナナの涙 鹿鳴つまみ 延暦 スーパー ハリケーン ノンブル タイム メラネシア メラルド スタンバイ ダイク スパン バックナ きゃべつ マスアミ ジャテラ ローフ レクイエム がいがん トリプシ リップ ハーピー ドラス ハゲイ トッカ リグナビ ハット チューリ ランド フラック ツンドラ せろりあ サフ たぬきじる め組最 エスキナ パスモ かたしな レジューム プラン オーバ ソビエト
これまでコラータは、スカ・コリュという冷害にも強く単位面積あたりの収穫高が高い耕作技術があったからアルティプラーノでも確固たる食料基盤を確保できた、集約的な労働力を必要とする生産技術 (スカ・コリュや水利施設) があったため管理する官僚制の発達を促した、ということを理由に、生態学的環境から見て非常に厳しいアルティプラーノでも、ティワナクのような国家レベルの社会が成立できたとしてきた[24]。しかし、もしティワナク期におけるスカ・コリュの重要性が相対的に低下してしまうと、この理論は成立しなくなってしまう。ちなみに、このコラータの理論については、すでにエリクソンからネオ・灌漑モデルとして批判されている[25]。さらには、ティワナク社会の崩壊原因としての、乾燥化によるスカ・コリュの機能不全というコラータモデルも再検討が必要となってくる。
古代の国家とは
結局、高次元の解釈を進める上で有効な考古学データを見つけることがほとんど不可能なことが、問題を複雑にしている。一般住居址の発掘調査も行われてはいるが、そこから耕作地の管理形態や生産物の吸い上げなどについて構築するためのデータを得るのは、かなり難しい。どうしても恣意的な推測が入り込んでしまう余地が残されている。
ただし、一般住居址の発掘調査からは、ティワナク社会においても階層差があったのではないかという証拠が挙げられている。遺跡の中心部近くの住居址や特定住居址では、他の地区では見られない、金箔や他の金属製品、精製土器などが出土している。このようにコンテクストごとで、物質文化において、若干の差が見られることはわかっている。
また、ティワナク谷全体や隣のカタリ盆地 (パンパ・コアニ) に分布する諸遺跡は、調査者によるとそれぞれ規模がかなり異なり、階層差が見られるという。ただし、その階層の解釈の仕方を巡って、ことなるティワナクモデルが提案されるのである。コラータはティワナク中央とそれに続く二次、三次センターを想定しやや統合的な社会を想定しているのに対し、アルバラシン・ホルダンは規模が異なるアイリュの重層化の表れと解釈している。
最終的に問題なのは、古代の「帝国」「国家」などの概念が研究者の間で一致が見られていないことにある。このように各々の頭の中で描く「国家」像が研究者によって違うことが、より議論を複雑にしている。
さらに、国家を示す考古学的な指標として世界的にもよく挙げられる、物資を集積するための倉庫や、権威や情報を伝達するための「王道」、権力者の存在を示す王墓などの強い証拠は、ティワナク文化においてはほとんど見当たらない。そのため、厳密に論じるならば、ティワナクが「国家」レベルの複雑化した社会であったことすら現段階では論じることは難しいといってもよい状況にある。
ティワナク遺跡と関連する地方遺跡
ティワナクは、ボリビアのコチャバンバやペルーのモケグワに飛び地を持っていたと言われている。しかし、それら飛び地との関係はあまりわかっていない。ティワナク遺跡のある中核地帯と地方のティワナク関連遺跡との関係について、現在では、ティワナクからの移民による直接的な統治ではなく、むしろ地方の地元豪族がティワナクの物質文化などを利用して地元に権力を行使していたとされる説が強い。
しかし、地域ごとにティワナクの影響は異なっており、モケグアにおいては、人骨の分析などからティワナクからの直接移民があったことが確認されている。しかしながら、チリのアタカマ地方にあるティワナク関連遺跡の人々は、ティワナクからの直接的移民ではなかったであろうと言われている。