天皇の即位儀礼の際に三種の神宝(神器)を奉る儀礼が行われていたのはいつ頃からか。『古事記』には即位に際して神宝(神器)またはそれに類する品の宝剣に関する記事はない。『日本書紀』には以下のように見える。
允恭天皇元年十二月の条、「是に、群臣、大きに喜びて、即日に、天皇の璽付(みしるし)を捧げて、再拝みてうえる」。
清寧天皇前記十二月の条、「大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽(しるし)を皇太子に奉る」。
顕宗天皇前記十二月野上、「百官、大きに会へり。皇太子億計(おけ)、天子の璽(みしるし)を取りて、天皇の坐に置きたまふ」。
継体天皇元年二月の条、「大伴金村大連、乃ち跪きて天子の鏡(みかがみ)剣(みはかし)の璽符(みしるし)を上りてまつる」。
宣化天皇前記十二月の条、「群臣、奏して、剣(みはかし)鏡(みかがみ)を武小広国押す盾尊に上りて、即天皇之位さしむ」。
推古天皇前記十一月の条、「百寮、表を上りて勧進る。三に至りて乃ち従ひたまふ。因りて天皇の璽印(みしるし)を奉る」。
舒明天皇元年正月の条、「大臣及び郡卿、共に天皇の璽印(みしるし)を以て、田村皇子に奉る」。
つぎは、即位儀礼の時ではないが、関連記事がみえる。
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孝徳天皇前記六月、「天豊財重日足姫天皇、璽綬(みしるし)を授けたまひて、位を禅りたまふ」。
封建の品を璽・璽符・璽印という漠然とし書き方をしており、鏡と剣との名をあげているのは、継体紀と宣化紀の二つのみである。宝物は元は二つであったのではないかという疑問が出てくる。
690年の持統天皇の即位の際に臣下の忌部氏が剣と鏡の2種を献上している。『日本書紀』持統天皇四年(690)正月の条に、「物部麿朝臣大盾を樹て、神祇伯(じんぎのかみ)中臣大嶋朝臣天神の寿詞(よごと)を読み、畢(おわ)りて忌部宿禰色夫知神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」とある。後に中臣氏が3種説を主張して勾玉が加わった。
尚、以下の説は神器が宮中にあったという説を元にしている。伊勢神宮などでは神器が持ち出されたという記録はない。
1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで平氏と源義経率いる源氏が戦った際に、安徳天皇が入水し草薙剣も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。またこの時後鳥羽天皇は三種の神器が無い状態にも関わらず後白河法皇の院宣を根拠として即位している。
足利尊氏が後醍醐天皇の建武の新政に離反し、1336年(延元元年/建武3年)に光明天皇の北朝を立てて京都に室町幕府を開くが、後醍醐は、自分が北朝に渡した神器は贋物であり自己の皇位が正統であると主張して吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き南北朝時代が始まる。正平一統の後に南朝が一時京都を奪還して北朝の三上皇を拉致する際に神器も接収し、後光厳天皇はじめ北朝の天皇は後鳥羽天皇の先例にならい神器無しで即位している。南朝の北畠親房は「神皇正統記」で、君主の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調する、がしかし神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位したという先例があり、三種の神器は即位の絶対条件ではない。
南朝が保有し続けた神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋により南北朝が合一された際に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。
室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、勾玉が後南朝に持ち去られたままになるが、その後1458年(長禄2年)までに奪還されたと伝えられる。
明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる南北朝正閏論と呼ばれる論争が起こるが、最終的には明治天皇が、南朝が三種の神器を保有していた事を根拠に南朝が正統であると決定する。
今上天皇は1989年1月7日に宮殿松の間で行われた「剣璽等承継の儀」において神器を継承した。